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法話

 
 
驕りTOP

驕りは人を傷つけその痛みまわりまわって我が身に返る
ここの所、ワイドショーでは歌舞伎役者のE氏の話題で持ちきりだ。
また、ちょっと前には
自衛隊の入間基地で
来賓の国会議員が無理難題を言って
「俺を誰と思っているんだ」
と、言うようなトラブルが新聞で報道されていた。
真偽の程は分からないけど…
考えさせられるのは驕り(おごり)
名声や地位を得ると
知らず知らずのうちに驕りの心が出てきてしまう。
他人事ではなく私の心の内にひそみ出番を待っている驕り心。
まさに“上から目線”
 
選択本願TOP

正座していると、膝が痛くなるので、
長時間の正座は避けるようにしている。
膝痛にはコンドロイチン.グルコサミン・ヒアルロン酸…
誘い文句の広告が私の心を揺らす。
私にとっては、どれが良いのやら…?
結局選びきれず…未だに迷っている。
その点、浄土真宗の救いの法は、
私の、外面・内面…全てを見抜き
私、一人の為に仕上げて下さった、
オーダーメードの救いの妙薬でありました。
勿体ないこっちゃ…
南無阿彌陀佛
 
念願の雨(雨に想うこと)TOP

降った降った…
台風の影響か?
乾ききった大地に雨が降り注ぎ
生死をさ迷っていた木々や緑は大喜び。
水まきは、まんべんなくと思っているが
どうしても偏りがでて、
水まきできない部分が出来てしまうが、
降り注ぐ雨には偏りはない。
どんな木や緑も同じ恩恵を被る。
阿弥陀如来の救いの法も
雨と同じで全てに平等に降り注いでいる。

【御伝鈔】
「あまねく甘露の法雨をそそぎて、はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。仰ぐべし、信ずべし。」
 
兆載永劫(ちょうさいようごう)TOP

さとりに到る所に、門があり鍵(かぎ)がかかっとる。
しかし、この鍵が開かんのであります。
鍵を削り開けようと兆載永劫(ちょうさいようごう)の時間を費やしても、
さとりに到る門の鍵は開くかどうか分かりません。
そこで阿弥陀さまはどうなさったかというと、
鍵穴の方を鍵に合うように、
自らの身を削り、兆載永劫の時間を費やし仕上げて下さった。
その門を浄土門と言い、鍵を南無阿弥陀仏といいます。
鍵は私であり、鍵穴は法蔵菩薩に譬えるなり。

【仏説無量寿経】
「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して…」
【御文章】
「弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ…」
 
モノサシTOP

人は自我の「モノサシ」でものを見る
虹は何色って聞かれたら…
七色と答える。
だが、アメリカでは六色、ドイツでは五色、南アフリカの一部では三色…
色々違うようである。
実際の虹の色に境目は無く、
無限に変化する色が並んでいる。
無限に変化する色の中で、
人々がどの色やどの数を大切にするかによって、
虹の色の数が決まる。
つまり、自分が大事にしている色や数を「モノサシ」にして決めている。
だから民族や文化によって違いが出てくる。
阿弥陀様は善人・悪人・男・女・財産の有無・修行の有無…
一切の「モノサシ」を当てずに、
一切衆生をお救い下さるのであります。
それは「私一人のため」のお救いであります。
 
TOP

門というより
狭い茶室の入口(高さ60p強の正方形の入口)であります。
この入口を「にじり口」という。
「にじる」とは、ひざを曲げて畳をすりながら、両手のこぶしで進む動きをいいます。
この狭い入口から二畳余りの茶室に入る時は、
どんな身分や地位が高い人でも、
頭を下げて、にじらなければならない。
昔、武士は入口で刀を預けなければ入れない。
ひとたび茶室に入れば、世間の身分等々の立場を離れて、
皆、平等になる意味を持つという。
お寺も一緒ですね!

【御一代聞書】(蓮如上人)
「身をすてておのおのと同座するをば、聖人(親鸞)の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば…」
 
親さまじゃTOP

私は一人で死んでいかにゃならん!
しかし、誰しも好きな人といつまでも元気でいたいと思う。
だが必ず別れがあり、一人での旅立ちであります。
…実は今生きている時から一人なのでしょう。
お念仏の信を頂く時、一人じゃなかった!
いつでも阿弥陀さまと二人じゃった!と頂く世界が開ける。
でも、阿弥陀さまと一緒よりも好き誰かと一緒にいたいと思う私がいる。
阿弥陀さまが人間じゃたら大変じゃ!
これだけ貴方一人を思っているのに、
好きな人と一緒にいたいと思うなんて…
いい加減せい!
と、切り捨てられてしまうだろう。
阿弥陀さまは仏さまじゃ!
お慈悲の親さまじゃ!
そんな私を見抜いて、
見捨てることなく寄り添って下さる親さまじゃ!
 
住処(すみか)TOP       

宇宙飛行士の山崎直子さんは、
宇宙から帰還して
「地球は想像していたよりきれいで、一つの生命体のように見えた…」と言っておられた。
まさに地球は生命体そのものだと思う。
ガン細胞・種々の細胞・インフルエンザ菌・善玉菌に悪玉菌…種々のいのちは、人間の体内を住処として生きている。
まさに人間や動植物も地球という生命体を住処として無量の縁の中に生きている。
阿弥陀様の尊い功徳は、
南無阿弥陀仏という名号となって、
私の心に入り込み仏種となって下さる。
 【教行信証】
「無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。」
 
うらを見せTOP

「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」(良寛さん)
誰でも一つ二つ
人に知られたくない「うら」の部分があるのでは…?
人に知られたくない自らの闇の部分(うらを見せ)を
告白して私に信心お大切さを教えて下さったのが親鸞聖人であります。
親鸞聖人の著作にはいたる所に自身の闇の部分を表白される
偽りだらけの私
賢く偉そうに見せる私
天に恥じる心のない私
お浄土へ行きたいとも思わない私
地位や名誉を求める私 …
そんな私をお救い下さる 「阿弥陀如来のご本願のかたじけなさよ」

南無阿弥陀仏
 
ことばTOP

時代劇なんかで、
お世話になったり恵みを受けた時に「かたじめない」というセリフがあるじゃないですか。
今では「かたじけない」という言葉を使う人はいない。
でも親鸞聖人は使われていたんですよね。
とめどない自分中心の欲と愚痴と怒りに始終している
私をお救い下さるお慈悲を「かたじけない」と仰っておられる。
かみしててみたい言葉であります。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄:御序)
 
雛飾りと結婚TOP

3月3日は雛祭り!
雛飾りは早くしまわないと結婚できない!
昔からよく言われるが…
これは、片付けのできない人は結婚できない!
と、誡めの言葉であります。
法事でも、法事は早めに勤めるのが言い!
これも忘れてはいけないよ!
ということを言おうとした言葉であります。
「月を差す指」という言葉があるように、
お経の御文でも
「経文の言葉にとらわれないで何を言おうとしているのか」
と学ぶことが大切であります。
ちなみに最近は一年中雛人形を飾る
マイひな人形が人気とか…
いいんじゃないですか…
 
大悲の温もりTOP

夜寝ていてふと思ったことがある。
太陽に近づく程、気温は高くなり、離れれば気温は低くなる。 地球は太陽から丁度良い位置にある訳だが… どうして地上では気温が高く、、太陽に近づく上空では気温が低いのか? 早速朝起きて調べてみた。簡単に言うと、太陽の光りは空気の中を通り抜け、海や地面にぶつかって熱が生まれ、その熱が上空に熱を伝えてゆくんだそうだ。 これを浄土真宗のみ教えで考えてみると、 阿弥陀如来のお慈悲は私の悪業煩悩を通り抜け、 私に至り届き信心(大悲の温もり)となって顕現して下さる。 妙好人の源左さんは「お慈悲はぬくいでのう」とおっしゃった。 太陽の暖かさもこの地上におればこそ暖かい訳で、 太陽に近づいたら暖かいだろうと思って 自らの力で高いところにいってもかなわぬ事よ!
 
顕現TOP

風は音によりて姿を現し
仏心は念仏によりて大悲を顕す
 
「心」に思うTOP

怒・悲・怨・愚・悪・恐・忍・忘… どの字も下に「心」という字が付いている。
自分勝手で独断と偏見だけど…、 「心」は阿弥陀さま…?
腹が立ったり、悲しんだり・愚痴をこぼしたり・恐れたり… どんな時でも、そのままの私を支えて下さっているんだなァ…
下に寄り添う「心」という字に思う
 
疑い心TOP

あるご門徒さんが、 学校で納豆の栄養価を勉強し、 是非食べたいと思って、 デパートで購入し家に帰り、 ばあちゃんに見せた。 「…こんな腐っているもの食べるな」と言われ捨てたそうな。 後日、やっぱり食べてみたいと再度購入。 …やっぱり糸を引いて腐っている…。 ヨーグルトを買ってきて、 ばあちゃんに食べてみたら、 「これは酸っぱくて腐っている…」 食べれば栄養があってとてもいい食品なんだけど… 疑い心が受け入れようとしない。

浄土真宗のご安心もしかりで、 曇鸞大師は「礙は衆生に属す。光りは礙にあらず」と云われ、 私に煩悩があるから救われないのではなく、 阿弥陀如来の救いを疑う心が救いを阻むと教えられます。
 
心の力を抜くTOP

新聞報道によると 交通事故を起こし拘留されるのがいやで、 2時間半余り「死んだふり」をしていた人がいたという。 救急搬送され、病院で尿検査が出来ないので、 尿道からカテーテルを挿入された際も反応しなかった。 警察から呼び出された母親の声を聞き目を開けたという。 警察官は「意識があるのは分かっていたという」から笑っちゃうよね… 死んだふりというのは難しい!

スポーツクラブのヨーガ教室に参加したことがある。 私の好きなポーズに「死体のポーズ」というのがあった。 床の上で「大の字」になって、死んだように全身の力を抜くんだけど…、 これが結構難しい!…自分では力を抜いているつもりでも、 インストラクターに 「目の力を抜いて下さい」 「おでこの力を抜いて下さい」… 一つ一つ指摘されると結構「力」が入っているものだ。

心の力を抜く… 無我というのかなぁ…
蓮如上人は御一代聞書(160)に、 「仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく…我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきである」と示される。
お他宗は、自分の力で「我」を抜こうとするが、 浄土真宗は、自身の罪も障りも生も死も全て阿弥陀様にお任せする一念であります。

〜歎異抄〜
「よろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼ れと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。」
 
お釈迦様は凄いTOP

世界の宗教の多くは 世界観・人生観を神によって創造されたと説く。

お釈迦様は「すべては縁より起こる」と説かれ、 因さえも縁によって変わる。 果物でも種は因であり、 太陽の光・水・空気・土・肥料…等々が縁となり、 実を結ぶ。 しかし、ブドウでも種なしブドウが好まれる。 その結果、人間の栽培技術の縁によって、 種なしブドウの種という因に変化した。 因でも縁によって常に変化する。 そこには固定したものは何一つもない。 お釈迦様一人この法則を明らかにされたのです。 まさに真理であります。
 
自力のはからいTOP

私の髪は短いから月2回床屋さんへ行きます。
いつも思うんだけど… ひげ剃りの時、顔に力が入っていると剃りにくいじゃないですか。 だから顔の力を抜こうと思うんだけど… これが難しい… 力を抜こうと思うと何となく顔がこわばってしまう! 考えてみたら、もう年取っているから顔はシワだらけなんだよね! そんな私が自分の力で力を抜いて、 剃りやすくしようと思うのが間違いなんだよね。 床屋さんの手によってシワを伸ばして顔ソリをしてくれる。

阿弥陀如来は私たちに“力を抜け”とは求められられず、 如来さまの側でお手回しして下さるのであります。 自然法爾章に、如来さまのお救いを自然(じねん)と示され、 人間のはからいに依って救われるのではなく、 「如来さまにしからしめられる」とお示し下さる。
 
死はいいもの・・・?TOP

新聞の人生相談コーナーに40代の主婦が「夜になると死を想像して怖い」と相談していた。昼間は家事・育児・趣味と充実の時を過ごしているが、夜、電気を消しベットに入ると、…いつか自分も死ぬ……重い病気にかかってしまったら……殺人事件に巻き込まれたら…色々想像して息苦しくなると言う。 心療内科医の回答者は死んで帰って来た人はいないし、そういう情報がないから不安になるのでしょう。でも、死を恐怖と感じるのは人が人であることの証です。…よい香りや・音楽に身を置き、心を落ち着けて死について考えてみるのも人生にとって必要では…というようなことを回答しておられた。

ソクラテスは、「死を恐れるということは、いいかね、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのだ」なぜなら、死を知っている者など一人もおらず、「最大の善いもの」かもしれないのに恐れてばかりいるからだ…」と言われている。 …私ならどうかと自分に聞いて見ると、死は今の私にとって考えの及ばない世界…親さまの(阿弥陀さま)「まかせよ!必ず救う」との喚び声におまかせする一念であります。

〜執持鈔〜
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。
 
オアシスTOP

浄土真宗の寺院の掲示板に 今では余り見かけなくなったが、 『オアシス』というポスターが張られていた。

『オ』おかげさま
『ア』ありがとう
『シ』しんせつに
『ス』すみません

真宗らしいいい標語だ。
オアシスでも色々な「オアシス」の標語がある。
〜あいさつ運動〜
『オ』おはようございます
『ア』ありがとうございます
『シ』しつれいします
『ス』すみませんでした。

〜避難訓練〜
『オ』おさない
『ア』あわてない
『シ』静かに
『ス』すばやく

…思いつきですが私も一つ考えました。
『オ』おまかせの
『ア』安心一つと
『シ』親鸞さまは
『ス』すすめけり    
(愚作 惠)

注:安心(あんじん)とは他力の信心のことで、 蓮如上人は「一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし」と示されます。
 
鎧(よろい)TOP

戦国時代は鎧を着けて戦場に臨んだ。
現代社会も戦場と言われる。 私たちは日頃から色々な鎧を着けている。…見栄をはる・お金・地位・名誉・ブランド品・学歴・職業・人の視線… 傷つかないように自分自身を守るのであります。

鎧を脱いであるがままの自分をさらけ出せばいいんだけど… 大なり小なり鎧を脱ぎきれない自分がいる。 その私の姿こそ煩悩具足の凡夫の姿であります。 〜歎異抄(9)〜 … そうした私であることを、阿弥陀仏ははじめから知っておられて、あらゆる煩悩を身にそなえた凡夫であると仰せになっているのですから、本願はこのような私のために、大いなる慈悲の心でおこされらたのだなあと気づかれれ、ますますたのもしく思われるのです。
 
未知との遭遇TOP

「南無阿弥陀仏」って不思議だよね! 私の「罪や障り」が転じられ、 お浄土行きの条件を整えて下さるという。 この世で罪を犯したならば罪を償わなければならないのは必然! 人間世界では考えられないことであります。

…何故…何故? いくら考えてもあり得ないことであります。 まず南無阿弥陀仏という言葉は、 人間世界の言葉ではないのであります。 人間が決めたり、人間が造り出した言葉ではありません。 人間の造り出したものでは私は救われっこない。 まさに南無阿弥陀仏は私の想像を超えた 不可思議なる「仏の御いのち」そのもの…。 南無阿弥陀仏との出会いは未知との遭遇であります。

私たちの世界では、水と油は一つにはならないけど、 宇宙空間では一つになるという。 南無阿弥陀仏は仏の全ての功徳を余すところ無く封じ込められた。 人間に語りかける仏の言葉であります。 その南無阿弥陀仏を、私に称えさせ救って下さる。 これを「全徳施名」(ぜんとくせみょう)と教えられる。

…でも不思議だよね…ナマンダブ…
 
やすらかTOP

霊園にお参りに行くと墓柱にはさまざまな字が彫られている。 浄土真宗では本来「南無阿彌陀佛」だけど… 「○○家之墓・穏・やすらか…」

先日お参り行った家は「やすらか」だったが、 見回すと三戸の墓が「やすらか」と彫られていた。 墓を建てた人が、 亡くなった人に「やすらか」であってほしい。 という想いで彫られるのであろうか…?

この受け取り方で、浄土真宗とお他宗との違いがある。 他宗においては、自身の願いを元にするが、 浄土真宗は自身の願いではなく、 それを喚び声として受け取っていくのであります。 「やすらか」であったならば、 亡くなった人に対して「やすらかでいてほしい」と願うのではなく、 仏となられた故人様から「心をやすらかに生きてくれよ」とのメッセージとして受け取っていく。 こちらから「やすらか」であってほしいと願う前に、 先に往かれた方から「やすらか」に暮らしてくれよと願われている訳であります。 そんな意味で、究極の願いを顕したものが「南無阿弥陀仏」であり、 それは「どんなことがあってもあなたを見捨てないよ!必ず救う」という仏の願いを顕したものであります。

道綽禅師の「安楽集」に 前に生まれたものは後を導き、 後に残されたものは、 前に往かれたかたがたの、 みあとを訪ねるようにしなさい。 とお示しになりました。
 
位牌TOP

当流では位牌ではなく過去帳にしましょう。
ご本尊は本山からお迎えしましょう。 …等々の注意点をご門徒には文章でお知らせする。 それでも中には位牌を作られる方がある。 法名「釋○○」であったものが、 仏壇屋さんで作った位牌には「釋○○霊位」と、 いつの間にか「霊位」が書き加えられている時もある。 「霊」を辞書には「肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」とある。 たましいが位牌の中に居る訳ではありません。

天親菩薩は「究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」とあり、 宇宙のように広大でとらわれを離れた世界と示されます。 浄土往生された方を狭い世界に閉じ込めないで下さい。
 
慈しみのこころTOP

誰にでも出来る慈しみの心!
「寒いね」と言われたら「寒いねェ」と答える。 「寒いね」と言われ「冬だから当然だよ」と答えたら何も言えなくなってしまう。

慈しみの出発点は「相手を受け入れ、心を通い合わせる」ことではなかろうか。 病気で苦しんでいる人に「苦しいよ〜」と言われ、 「頑張れよ!」じゃなくて「苦しいねェ〜」相手と心を通い合わせる。 まさに阿弥陀様の救いの出発点は、「相手の苦しみを、我が苦しみ」(同体の慈悲)とされたのであります。

御文章の「猟すなどり」(註釈版聖典1086-14)にも、漁師に「生き物を殺すことはいけないことだから止めなさい」と言われず、生き物を殺すことはいけないと知りつつも、それしか生きるすべのない人を、救おうとお誓い下さったのが阿弥陀如来の救いの法が示されます。
 
大樹の根っこTOP

綺麗な花を花瓶に活けても暫くすると枯れてしまう。

屋久島の縄文杉(世界遺産)は7千年余り(推定樹齢)生き続けている。 何故、生き続けているかというと根があるからであります。 縄文杉の木の根はどれくらいの広がりを持っているんだろう…? しかも私みたいにウロウロと動き回るのではなく、 その場所で生き続けている。…尊敬する! 人間も根が大切なんだよね! どんなに栄華な人生であっても一時のこと!

親鸞聖人は
「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。」
とお示しになり、 阿弥陀如来のみ教えが「私の根っこ」となって下さり、
私の苦難な人生を支えて下さるだよ! とお示し下さいました。 根を育てるのは人間にとってお聴聞以外にはありますんよ!
 
人生の宝物TOP

私の宝物って何だろう?…宝石・財産・名誉・人でも子供・妻・夫・恋人… ある人は、中学時代の初恋の人と結婚して11年後「好きで好きでたまらない」彼を交通事故で亡くしたそうです。

しかし、今でも彼女の人差し指には16歳の時彼から貰ったビーズの指輪がされているという。 その人にとっての宝物は、彼であり、ビーズの指輪かも知れない。 では、私の人生でなくてはならない究極の宝物ってあるんだろうか?

仏さまのみ教えに聞いて見ると、 いつか離れていく宝物ではなく、 時代が変わろうと、 人に見放されようと、 私を生かしきる究極の宝物は お念仏のみ教えこそが永遠の宝物と示されます。



〜仏説無量寿経〜
「衆のために宝蔵(法蔵)を開きて、広く功徳の宝を施せん」
 
執着心TOP

ある男が歩いていると、大河に出くわした。
河には橋もなく、船もない。
そこで男は、木を集めて筏(いかだ)を作り、川を渡り向こう岸に着いた。
男は苦労して作った筏を捨てるのはもったいないと考え、
その筏を担いで歩き始めた。

お釈迦さまは、この話を聞いてどう思う?
と尋ねられた…という。

筏(いかだ)は川を渡る為には必要だが、
陸地を担いで歩いても何お役にも立ちません。

私達もこれと同じ生活を送っているのでは…?

○○大学出身…学歴を自慢し
定年になっても○○会社の専務をしていた…と過去の地位を自慢し
競馬でいくら儲けた。パチンコでいくら稼いだ…
私の家は旧華族だった…私の家は資産家…名誉や財産を自慢する。
数え上げればきりがない…

現在のことだけでなく、過去のことから、先祖まで…
地位や名誉・財産…自慢しおごり高ぶる。

まさに必要のなくなった筏を担いで歩くのと一緒!!

これを執着心といいます。
浅ましや・お恥ずかしや…私もその一人!

 
妙薬TOP

皆さんは高血圧の薬だったり、血栓を防ぐお薬だったりと色々なお薬をお飲みかと思います。

南無阿弥陀仏というのもお薬であります。

このお薬は飲む薬ではなく称えるお薬であります。

この南無阿彌陀佛というお薬は、阿弥陀様の全てのお徳と、お浄土参りの種が全て封じ込まれておりますので、お念仏を申すところに、お浄土へ参りの弊害となる悪業煩悩を残る所もなく無害化し消し去って下さるお薬であります。

阿弥陀様は、南無阿彌陀佛という妙薬の効くことの疑いを除き、私の口を開けさせ飲み込まして下さる。合掌

〜無上甚深章〜(抜粋)
…この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり…大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり…

 
宇宙のいのちTOP

お念仏は無為自然なる宇宙のはたらきなり

宇宙の無量なる”いのち”が私一人を生かす

無碍なる”いのち”の前にひれ伏し念仏申す

唯々赤子のように丸ごと宇宙のいのちに任す

往生とは宇宙の”いのち”と一味になること

 
仏さまはいるの…?TOP

仏教はお釈迦さまがお説きになった仏の教えですが、
お釈迦さまは別にして、
阿弥陀様は本当に「いるの・いないの」…?

「いる」なら私に見せてくれ!と言う人がいる。
あるいは「神も仏もあるものか」よく聞く言葉である。

仏さまは月や太陽のように形としては示されません。
仏さまは「心に感じたり、心に響いてくる」ものだと思う。

心に感じたり、響いてくると言うことは形で表現できない。

NHKの「のど自慢」大会で心に響いてくる人の歌と、
上手いんだけど心に響いてこない歌がある。
やっぱり心に響いてくる人の歌はカンコンカンと鐘が鳴る。

テレビの電波は流れていてもアンテナがなければテレビは映らない。

仏さまがいないのではなく、仏さまを感じる心がないから…

仏さまのお心が至り届き、
その感じる心(響き)を信心と言われるのではないでしょうか。

その感じる心(響き)は自分で造り出すものではなく、
仏さまから与えられる心であります。

 
生命流TOP

「ときめきと思っていたら不整脈」と誰かが詠っていたけど、

寝ている時、ドクンドクンと脈を打ち、心臓から身体の隅々まで血液を運ぶ、ドクンドクン絶え間なく正確に動いている。

人間の身体もそうだけど、海流は海の大動脈、人間の動脈と同じように地球を駆け巡り、あらゆる世界にいのちを恵む。

森羅万象は、内も外もない生命流のうねり。
さまざまな波が絶え間なく揺らぎながら無限に連続している。

生命流のうねりの中で、それぞれの波が複雑精妙に関係し合い、
その時ならではの相が現れ、たちまちに消えて、また現れる。

この世界で見られる一切の現象は、生命流の移りゆく相であり、
一つの断面をとらえて固執するのは、人間の都合に過ぎない。

 
TOP

4月1日はエイプリルフールで、嘘をついてもいい日とか…

エイプリルフールでも、
可愛い嘘なら許せるけど…許せない嘘もあるだろう。

自分を良く見せようと嘘を言う。
心では思っていないのに「可愛いですね・キレイですね・お若いですね…」でも、これは二枚舌かな…?

一生涯でどの位の嘘をつくんだろう…?
きっと数え切れないんじゃないかなァ…

「嘘も方便」という言葉があるけど、
これは、仏さまが巧みな方法を用いて私をさとりに導くことで、
方便は、真実に裏打ちされたものでなければならないのです。

しかるに私たちは、親鸞聖人(正像末和讃の愚禿悲歎述懐讃)に、
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」であります。

阿弥陀経でも、極楽はこんな素晴らしい所だぞと有相を以て示し、人々を極楽(お浄土)引入し、信心を届けて下さる訳であります。

〜蓮如上人「御一代聞書」〜
極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。

 
楽しい…苦しい…TOP

今あなたの「心」は、苦しいですか?…楽しいですか?

苦しみの反対が楽しみ?…

苦しみは孤独だよね!

楽しみという言葉で思い出すのが極楽という言葉だ。
極楽というと何でも思い通りになるように思うけど、苦しみから解放された世界という。

その楽しの世界(極楽)は遊びのような世界。

正信偈に「煩悩の林に遊ぶ」とあり、子どもが学校から家に帰って来るや否や、ランドセルを放り投げて遊びに出かける。そして日が暮れるのも忘れて遊ぶのである。

阿弥陀様の救いも同じで、おさとりの世界から迷い苦しみ世界へ来て遊ぶがごとく人を救うという。

…まだおさとりの世界へは行っていないけど…楽しみだなァ…。

辛いこと悲しいことあると思うけど、ありのままの自分で、ありのままの姿で、人を責めず生きて行ける自分になりたい。

 
自然な別れ TOP

私が勉強になった看護師さんお言葉です。

「人間は高齢になれば、病気や老衰で全ての機能が低下します。自力で飲み込みができなくなったら、無理に水分などは取らない方がいいんですよ。生きるのに必要な水分が体から抜けきって、初めて自然に死ねるのです。死ぬためには、乾ききることが必要で、この状態をドライアップといいます。点滴などなかった昔は、皆そうやって自然に死んで行けたのです。」

…ある人は点滴や酸素マスクをしていると苦しそうなので、先生に頼んで外してもらった。外したら心なしか楽になったように見えたという。そして自然に死を迎えた。

…私の父も亡くなる前、酸素マスクをしていたけど確かに苦しそうだった。あれで本当に良かったのだろうか?…考えさせられる看護師さんの話ですね。

 
卒業式の歌 TOP

中学校の卒業式で歌われるアンジェラアキさんの「手紙」という曲が人気だそうだ。

負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は
誰の言葉を信じて歩けばいいの?
ああ 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
自分の声を信じ歩けばいいの
いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど
笑顔を見せて 今を生きていこう

とってもいい曲ですね!

この歌詞を聞きながら、お釈迦さまの最後の説法といわれる。

「自らを灯(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他をよりどころとしてはならない。法を灯とし、法をよりどころし、他をよりどころとしてはならない」

という一説を思い出す。

この言葉は、「自分以外のもにしがみつき、自分勝手に生きて行きなさい」というのではなく、まさに真理(法)を心の奥底に蓄え、自らの道を生きて行きなさい。というお言葉であります。

 
小川と大河 TOP

好きな歌に「時代おくれ」(河島英五)がある。

酒場を舞台に、自分を静かに見つめ、愚痴を言わず、友を大切にし、(以下歌詞の一部)…目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは 無理をせず 人の心を 見つめつづける時代おくれの男になりたい…

でもなかなか出来ないんだよね!
愚痴は知らない間に口から飛び出しちゃうし…

お経に「底の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで流れる」と示されるが、大河のように思慮深く口を慎み生きたいが、私なんか口数は多いし思慮が浅い小川そのもの…

でも、底の浅い小川も大河と同じように海に流れ込み、一味の塩味(さとり)の世界に転じられるという。

〜高僧和讃〜
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり

(現代語訳)
罪重く障り多き私であっても、阿弥陀如来の救いの法におまかせすれば、どんな川も海に注ぎ込まれ川が海になるように無上の安住の世界へ参らせていただくのであります。

〜本典(行巻)〜
「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。

 
あるままにみる TOP

本日拝読しました和讃に「智慧」という言葉が出てきました。

仏教でいう智慧とは「如実知見」(あるがまま見る)ということであます。

先日床屋さんでWBC韓国−日本戦を見ていたら、
イチロ−が右バッターボックッスに入っているではありませんか?

店長に「あれ!イチロ−右打ちでしたっけ?」すると店長は鏡・鏡という。 あ!そうか鏡に映ると反対になるんだよね!ビックリ…!

私たちは鏡であるとか自我という色眼鏡を通して見ている訳であります。男・女、お金が有る無い、地位、学歴…等々という肩書きや姿・形に惑わされて実際はあるがまま見ていない。

私たちの智慧は「分別の智慧」(混ざりものがある)であり、仏さまの智慧は「無分別」(ピュア100%純粋)であります。

…以下省略

 
お釈迦様のおさとり【2】 TOP

【縁起】
これあるが故にかれあり。これ無ければかれなし。
これ生ずるが故にかれ生じ、これ滅すればかれ滅す。

私たちの身体で、体内ホルモンが低下したので、そのホルモンを薬で補う。
すると体内のホルモンを作る仕組みがサボりはじめ、薬をやめてもホルモンを造り出す機能は低下したままなので、しかたなくその薬を一生飲まなくてはならない場合があるという。そればかりではなく、だんだん量を増やさないと同じ薬効が得られなくなった…

ドリンクの自動販売機だと異物が入ってくると詰まってしまうが、私たちの身体は余計なものをが入ってくるとバイパスを作ったり、何とかそれを無害化しょうとしたり、分解して排出しょうとしたり、…常に揺らぎ、変化しながらバランスを保っている。

お釈迦さまは、私たちの身体に限らず、宇宙に存在する森羅万象の全てが互いに関係し合い大きなつながりの中にあるという真理に目覚められて仏陀となられた。

 
お釈迦様のおさとり【1】 TOP

お釈迦様がおさとりを開かれ、最初その内容が世の人の考え方と違っていた為、教えを説くことを断念されたという。
しかし、思い直して法を説くことを決意された。

そのおさとりの内容とは…

お釈迦様のおさとりは、この世は「因・縁・果」の道理に従い、花の種(因)に縁(水・太陽の光・栄養等々)をいただき花が咲く(果)という因縁果の道理であり、下記の@ABの考え方を否定なさいました。

@この世は偶然の連続。何もなかった所に忽然と現れる。こういう考えだと人間の努力など必要なくなってしまう。(無因論)

Aこれも運命だからあきらめましょう。人の人生は定められている。真面目に生きても無駄だよね。(宿命論)

Bこの世は神が支配している。神の思し召し。自分以外のものが私の人生を支配している。(神意論)

「火の車 つくる大工はなけれども おのがつくりて おのが乗り行く」
善因善果・悪因悪果であり、努力すれば努力した結果が付いてくるものであります。

 
言葉(仏の相) TOP

最近は何でも言葉を省略する。ワープロ・地デジ・ワンセグ…

私のように歳をとった人も負けてはいない!
話の途中で思い出せなると「ホラ、アレ・あれよ〜、ね、わかるでしょ」そんなの分かんないのって!
いくら何でもそこまで省略されちゃうと分かりません。

人それぞれに脳の形も違うのに「ね、分かるでしょ!」と言われても分かりません!

人間はものを考える時、言葉を使って考える。
言葉にならないものは考えたり、イメージ化したり出来ない。
だからとりあえず名前をつけ、その言葉の中で思いを巡らす。

おさとりの世界は本来言葉に出来ず不可称・不可説・不可思議という。

言葉に出来ない世界を、私に分かるように阿弥陀と名乗り、お釈迦様という人間の形を通し、仏説無量寿経という教説を通して私たちに分かるようにして下さった。

別な言い方をすれば私たちのレベルに降りてきて下さり、私を救って下さる仏の相であります。

 
見通しのある不安へ TOP

人間は自分の思い通りにしたいという心(自我)があります。
恋愛・就職・失業・病気…
思い通りにならいと悩み苦しむ。
人生の究極の苦は「自らの死・愛する人との別れ(愛別離苦)」と言われる。

お念仏に出遇うことは、
仏の智慧によって、自分の思い通りにしようという自身の「自我心」があきらかになり、「死ぬのはイヤだ!」という不安を打ち消すことは出来ないけれど、自分の行き先が阿弥陀如来の「必ず救う任せよ」という喚び声(智慧)によって、見通しのない不安から、見通しのある不安へと転ぜられる。

ある人は「死にとうない 死にとうないけど 参らしてもらうんじゃ」と言われたというが実際その通りだと思う。

それを浄土真宗では「安心」(あんじん)と教えられる。

 
物差し(ものさし) TOP

保育園で節分の鬼の絵が飾られていた。
みんな鬼らしい鬼なんだけど…

自分の子供の鬼の絵は、
黄緑色の画用紙に緑色のクレヨンで、鬼の顔は▽顔。
まるでカマキリのよう…
自分の子供だけが異彩を放つ不思議な絵で恥ずかしかったと言う。

家に帰り聞いて見ると、
みんなピンクや黄色の画用紙なのに、
何で○○ちゃんだけ黄緑色なの?
  …ブロッコリーが好きだから。
何で三角の顔なの?
  …おにぎりが好きだから。
そうか、自分お好きなものを鬼にしたのか!

…安心すると共に、ちょっとヘンテコな鬼だけど、
…娘らしさが詰まっている大切な絵。
…大人の物差しで見ていた自分を反省したという。

浄土真宗でいう「悪人」でも、
人間の物差しではなく、
真実(おさとりの世界)を物差しとして聞く所に「罪悪深重」と知らされる。

 
雪列車 TOP

私の好きな歌に前川清の「雪列車」がある。
匂うように 笑うように 雪は降る…

しんしんと降る雪は、
あらゆるものを白く染め静寂の空間であります。

 欲ふかき 人のこころと 降る雪は
  積るにつけて 道も 忘るる

そんな中、静寂を破り白い息を吐きながら力強く進む雪汽車。

 雪列車 雪を払いて 一途に進む
  私しゃ 六字に引かれ 無碍の一道 (恵)

白く包まれて道は見えねども道はある。
どんな逆境の時でも道はある。

〜観経疏〜
「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。」

 
歓喜光 TOP

あァ…知らなんだ!知らなんだ!

阿弥陀如来の異名はそのはたらきにより種々の名がありますが、
「歓喜光」を今まで単純に、
私に「よろこび」を与えて下さると心得ていたんですが…。

親鸞聖人の「弥陀如来名号徳」に
「よろづの有情の瞋恚(しんい)・憎嫉(ぞうしつ)の罪を除きはらはんため」
(意訳:あらゆる命あるものの怒り腹立ちやそねみねみの罪を取り除く)

とあり、怒り腹立ちの「罪」を除くためとあるではありませんか。

五劫もかかるはずですよ!そこまで考え抜いていて下さるとは…

思い通りにならない時カッと怒る私。
腹立ちをなかなか捨てられない私。
今の生活に不満を持つ私。…

そんな私の怒り狂う私をそっと抱き続け、
私の人生にやわらぎと満足を与えて下さる
はたらきが「歓喜光」のはたらきと知らされた。

 
整形手術? TOP

海外から帰国時、
出国手続で、私の前の女性が手間取ってるんですよ。

係官はパスポートの写真と本人の顔を見比べながら…
どうもおかしいなァ…と、

私は思わずハハ〜ン整形手術しなんだなァ…と思った。

やっぱりこの世は美しく可愛い方がもてるからなァ…
…私も背が低いから、高くなりたいと、どれ程思ったことか…

阿弥陀さまは、姿や形で苦悩する人間の姿を見抜いて、
苦しみのない世界を成就下さったんですね。

〜仏説無量寿経〜
(4) たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。

(意訳)わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々の姿かたちがまちまちで、美醜があるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 
賢き思いを具せず TOP

お雑煮は地方や家庭によって、
おすまし仕立て、焼いた餅…色々あります。

全国ネットの雑誌社から
お宅の「お雑煮」を紹介したいので記事と写真をお願いします。
と依頼されたら…どうしましょう。

いつもと同じように紹介すれば何ともないことでしょうが…
チョットよく見せようとしませんか?
みんなの為に、こんなおせちもあるよ!と紹介したくなったり…
等々から始まって器や箸までも新しいものに…
そうなると苦しみの始まりです。

出来上がってみれば特別なおだしで出汁をとり、
具もちょっと見栄張り…
食器から箸まで普段のものとはほど遠い
手心(自力心)の加わった偽物の
新作お雑煮だったりして…

お念仏を頂くことは、自分の手柄はいりません。
ありのままの私が救われてゆくみ教えであります。
賢く見せようとするのは偽物です。
それを雑修と言われます。

〜歎異抄
  よろづのことにつけて、
  往生にはかしこきおもひを具せずして、
  ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、
  つねはおもひいだしまゐらすべし。〜

 
愛憎違順 TOP

今年はガリレオが10倍の望遠鏡で初めて宇宙観測し400年経つそうだ。 それまで月は水晶のようだと思っていたものがクレーターを見つけたり、地動説の発見等々あるが…、400年後の今、ハワイにある国立天文台の望遠鏡「すばる」は、東京から富士山頂のボールを見分ける精度があるそうだ。 今や人類は宇宙の隅々まで見ることの出来る「目」を持った。 しかし「外を見る目」は持ったが、「内を見る目」は、…仏さまの教えの衰退と共に失いつつのを実感する。まさに末法であります。

蓮如上人の『御一代記聞書』には 「人のわろきことはよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるものり」 とお示し下さるが、ホント人のことはよく分かるんだよね!

親鸞聖人の『ご和讃』には、
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峰岳山にことならず

愛憎違順とは、「自分に従うものは愛し、心に違うものは憎む」ということであり、 自身を善とし、それを物差しとして他を見ているのであります。そういう内なる私の心を知らしめて下さるのが、阿弥陀如来の智慧の光であり、罪悪深重と知らされることであります。

そんな私を知り抜いて阿弥陀さまは「正せ」と言われず、「そのまま救う」と呼んで下さるのであります。 もったいないこっちゃ…嬉し恥ずかし南無阿弥陀仏。

魂を入れたり出したり出来ますか! TOP

お釈迦様は、この世の全ては「縁によって生じ、縁によって滅す」
これ縁起の法であり、不変なる霊魂を説かれていない。 しかし世の人は、お墓を新しく建てると「開眼」とか、 お仏壇や位牌に「魂入れ」・・・と言われるが、 お墓を建てたら「建碑法要」であり、お仏壇なら「お入仏法要」である。
 
友人の布教使が、あるお宅から「魂入れ」(入仏法要)を して下さいと言われ、そんなら「あんたの魂抜いたろか!」と言ったという。 そんな魂入れたり出したり出来るかいなァ・・よく位牌に○○霊位と記されているのをよく見かけるが、 亡くなった方を魂とか霊といただくから、フワフワとさまよう霊が、災いを起こさないようにと、位牌の中に入ってもらい供養する。お盆になると、仏壇から位牌を出して並べ、お供物を供え、位牌に向かってお経をあげて供養する。

浄土真宗には必要ないこと!阿弥陀如来に抱かれて、お浄土(おさとり)の世界へ参らせて頂くと、 弥陀同体のおさとりの世界から自由自在に私を護り導いて下さっています。 ご法事では、お仏壇のご本尊(阿弥陀如来)を中心にお荘厳し、 お勤め(仏徳讃嘆)させて頂きましょう。

    

幽霊とは、私自身の姿だった!TOP

一時期テレビで心霊写真等々の番組がよく放映されていた。お寺にも心霊写真なるものを処分してほしいとよく来られたものである。

私も最近知ったことであるが、幽霊には三つの特徴があるそうです。
一.髪の毛が、長く後ろに伸びている。
「後ろ髪を引かれる」という言葉 があるように、過ぎ去った事や自分の周りの心配事に心を奪われている。
二.両手が前に垂れている。
「取り越し苦労」という言葉があるように、将来、未来のことにあれこれと悩んで、無駄な心配をして心を奪われている。
三.足がない。
過去のことに未練を残して、いつまでも振り切れず、
未来のことが気がかりで我が身の現実がお留守になって見えない状態を、足がないと表現されている。そうすると幽霊とは、あっちこっちに心を奪われ、地に足が着いてない私自身の姿でありましょう。

鏡の前に立てば姿がうつる、教法の前に立てば心がうつる。という法語があったが阿弥陀如来の御本願は、私達が早く迷いの現実に気づき、真実の世界にめざめてゆくことを、願いつづけておられます。

人の手本にはなれないが見本にはなれる TOP

北陸に高光大船というみんなから尊敬される念仏者が「自分は人の手本にはなれない、だけど見本ぐらいにはにはなれるだろう」と言われたという。私はこの言葉に何かホッとする安らぎをおぼえる・・・手本になることは立派なことには違いない・・・だけど阿弥陀さまの智慧に照らされた私の姿は、自分中心で煩悩三昧(欲・怒り・愚痴)の日々であり、 とても手本になれるような姿(身口心)は一つもない恥ずかしい自分を知らされる。

浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心はさらになし (親鸞聖人『正像末和讃』)

見本という私は、立派な自分を取り繕う訳でもなく、ありのままの自分でいいんですね!

よろづのことにつけて、往生にはかしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の深重なること、つねにおもひいだしまゐらすべし。(『歎異抄』)

阿弥陀様のご本願は「手本になれない」私を「見本のまま(このままの私)」を救う為の願いでありました。 南無阿弥陀仏

腹がたつ事 TOP

悪口を言われると腹が立つ、腹が立つのは自分の都合。自分の心に、心地よくないから腹が立つ。腹が立つのは、お粗末な、いたらない私の心・・・・でも、悪口を言った人のその言葉によって、自分のお粗末な心(怒りの煩悩)が姿を現す。もしかしたら悪口を言ったその人は、私のお粗末な自分の心を、私に知らせる為の如来さまのお使いなのかなァ・・・
作家の吉川英治さんは「我以外皆我師」ー自分以外はみな自分の師であるー と言われ、親鸞聖人の「 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄) というお言葉に、お味わいさせて頂くことであります。

しかし、如来さまのお使いと思いつつも腹が立つのは治まらない・・・・「煩悩熾盛の凡夫」という言葉が身に浸む。念仏は そのままこいよのお呼び声 南無阿弥陀仏

最大積載量「女房子供が喰えるだけ」 TOP

先日、前を走るトラックに最大積載量「女房子供が喰えるだけ」と記されていた。「おいおい、どれだけ積めば気がすむんだよ!」思わず苦笑し、運転手さんの顔が見たくなりました。運転している方は、家族のために一生懸命働いているんですね。とてもほほえましい一時だった。阿弥陀の願いは私を迷いの世界からさとりの世界へ運ぶこと。

しかれば大悲の願船に乗じて・・ 無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を超証す(『教行信証』)

群萌を運戴して生死を出すがゆえに、あまねくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに、ひさしくしづめるわれらをば弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならず わたしける生死大海の船筏なり父母が子供をいとおしく決して見捨てることが出来ないように、阿弥陀さまはいのちの全体をかけて私を心配していて下さいます。

素直になりたいな TOP

テレビディレクター、テリー伊藤さんは「お笑いって、自分の弱さや、だめなところをさらけ出すこと。会社のトップの自殺が目立つけど、虚勢を張らず弱さをさらけ出せばいい。太平洋戦争の御前会議で『やばいっすよ。アメリカにやられますよ』という人がいたら、世の中変わっているとおもうけどなあ」と言っておられたが、我を張らず素直になりたいな。素直になるには、無我なる仏の智慧を聞信させて頂くのが妙薬。

如実知見はお釈迦様のおさとりの心
すべてのものをありのまま見なさいと言うこと
ありのままそのまま見たら苦は起こらない
花が咲いたら花をそのまま見る
花が散ったら散る様をそのまま見る
そのまま ありのままに ありのまま見ないで
花が散るのは嫌だ
散らせたくないと思うのが苦
諸行無常の世
どうにもならないことをあれこれ思い悩む心が
愚痴となり苦となる悩んで物事が解決するなら
どんなに悩んだっていいけれど年をとりたくないと言っても
無理なこと病気になってくよくよ悩んでないで素直に受け入れたら
素直になると
当たり前と思ってたこと
気がつかなかったことが見えてくる
無我にはなれないまでも素直になりたいな

二十世紀は、人と人、国と国、自然と人類等々対立と争いの世紀と言われたが、二十一世紀はもっともっと全てが仲良くなれたらいいね

あいさつ TOP

一月下旬の大雪が降った時、早朝より雪かきをしていると、見知らぬ人がお寺の前を行き過ぎてゆく、本堂に向かって合掌礼拝して行く人、歩道の雪を掃除している私に申し訳なさそうに会釈して行く人と様々である。そんな時「おはようございます」と声をかけて下さる方があり、私も「おはようございます」と挨拶する。初めての人に声をかけるのはチョット恥ずかしいけど、今度はこちらから「おはようございます」と声をかけると「おはようございます」と声が帰ってくる。なんとも気持ちのいいものである。

ご法事で伺った時は、玄関で迎えて下さった方に形ばかりの挨拶の後、まっすぐお仏壇の前に行き、ご本尊(阿弥陀如来)にお念仏でご挨拶し、そして向きを変えてあらためて、家の方にご挨拶します。だって、この家を護って下さっている如来様だもの・・・

世間では、家の人が仏壇を護っているかのように言われるが、とんでもない思い違い。法語で我が心のうち阿弥陀さまをあるじとし凡夫の心をあるじとすることなかれというのがあったが、凡夫の心があるじとなると「私がお仏壇を護っている」となり、阿弥陀さまがあるじとなると「唯、お敬いするだけ」でありましょう。

四十九日 TOP

先日初めてのご縁を頂いた方のお葬儀を勤めさせて頂いた。
その時の出来事、
「葬儀が終わると外国に行かなくてはなりません。ついては、葬儀と一緒に初七日・四十九日も一緒にお願いします。お布施は別に払いますから」と葬家の方から依頼され困惑した。まァ初七日位ならわかるけど、四十九日まではチョット・・・喩えが悪いかも知れないけど、新車を買って、納車の時に一万キロ点検もやって下さいと言うのと同じ事。そんなこと出来ますか!

ご法事は何のためにやるの、故人のため・・・残された方の務めとして・・・ 宗派の規範集には「追善回向の仏事ではなく、今は亡き故人を偲び、それを縁として仏恩報謝の懇念を深める」と明記されている。その時も言ったことであるが、「四十九日法要は何もお寺さんにお経を読んでもらわなくても、お経本を差し上げますから、人数にこだわらず、集まれる人だけで、四十九日という時間の経過した中で、故人を偲び、みんなでお経を読み、御文章を拝読するだけでもいいですから、四十九日頃して下さい。」と言ったことである。

鹿児島の方では、親戚同志で初七日、二・七、三・七・・と分担し、それぞれの家の近くで浄土真宗のお寺を探し、ご縁をもたれる。故人を縁として仏法のご縁に遇われる事はいいことだと思う。ちなみに、今までの最高は、一周忌と三回忌を一緒にお願いしますと言われたことである。論外!

坊主丸儲け・・お布施の行き先 TOP

年回法事を勤めさせて頂いて、皆さん「お布施」を包まれる。
お布施の意味はさておいて、表書きは「お布施」であってほしい。
家庭により表書きがなかったり、志、お礼、感謝・・様々である。
一番困るのが「お経料」である。

お布施は、年回法事をお勤めさせて頂くのに、料金表がある訳でもないし、お経を読んだ料金でもない訳であります。また、頂いたお布施が個人の収入になる訳でもありません。お布施の行き先は、宗教法人としてのお寺の収入であり、阿弥陀さまのものであります。僧侶は阿弥陀さまにご進納下さった尊い浄財をお預かりして来るのであります。
そして、その浄財によりお寺の生活や寺院施設の護持や運営・仏法繁盛のために使わせて頂くのであります。ですから、お寺に税務署が来て浄財を 個人的に不正使用してないか調査もあります。
どうか、これを読まれた方は「お経料」と書かないで「お布施」として下さい。

何をモノサシに・・・ TOP

正月を迎えると、今年はどんな年になるのだろう。
こんな事したい、こう在りたいと心に思うものであります。
正月の正の字は「正しい」という字であります。
私たちは何を「正」の基準(モノサシ)にしているのでしょうか。
何を「モノサシ」にするかで、
人生が違ったものになるのではないでしょうか。
法律・道徳・・・色々ありましょうが、
ややもすると自分の経験や見聞きしてきたこと、
学歴・社会的地位・健康・収入・・・を基準にして、
他を裁いたり意見を言ったりすることが多々あります。

お釈迦様は、「一部分を知ったからと言って全体を知ったと思ってはならない」と教えて下さいましたが、誠に私たちの日々は自分中心に一部分を知って、全体を知ったか如く、自分中心に思いこんでいる愚かな凡夫であります。
聖徳太子は「世間虚仮・唯仏是心」と言われ、親鸞聖人は「 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもてそらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」と言われました。
そこで言われる基準(モノサシ)は仏法でありましょう。仏法を通して見る「正」と、私達の色メガネを通して見る「正」とは明らかに違います。
この一年「本当の正」(真実)に出会ってみませんか。きっと今までと違った本当の人生の拠り所(本物)が見つかるはずです。

おもいちがい十ヶ条 TOP

  高いつもりで低いのが教養
  低いつもりで高いのが気位
  深いつもりで浅いのが知識
  浅いつもりで深いのが欲望
  厚いつもりで薄いのが人情
  薄いつもりで厚いのが面皮
  強いつもりで弱いのが根性
  弱いつもりで強いのが自我
  多いつもりで少ないのが分別
  少ないつもりで多いのが無駄

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(『一念多念証文』)